僕が別冊宝島の編集者だった頃


洋泉社の石井慎二社長が金曜日に亡くなられたとの連絡を受けた。

石井さんは、僕が大学を卒業して宝島社に入社したとき、配属された部署(出版1局別冊宝島編集部)の編集局長だった。
というより、就職試験を受けたときに二次面接をしていただいた方だった。
たしか面接では、浅羽通明さんの『天使の王国』という本について、(今から思えば)ぬるい感想をしゃべったと思うが、そこが気に入られたのか、最終の社長面接に通してもらえた。
当時、出版社に入りたくて就職浪人までして、それでも秋まで就職先が決まらず、追い詰められた状態だった。
面接の翌日だったか、石井さんから自宅に電話をいただき、「君を次に残すから」と言ってもらえたときは、大げさではなく、将来に光が射したように思えた。
僕がいまこうして編集の仕事をしていられるのは、石井さんのおかげと言ってもよいほどの、大恩人だ。

結局宝島社は4年半ほどいてメディアワークスに移ることになったが、辞める際は強く慰留していただいた。
あとで会社の後輩からは「星野さんはあれだけ石井さんにかわいがられているのに、辞める気が知れない」と言われたが、それほどではないにせよ、気にかけてはくださっていたのだろうか。
その後、石井さんは洋泉社の社長に転じたが、ある人を介して「宝島社は難しいが、洋泉社なら戻れるようにしてやる」との誘いをもらったこともあった。当時は感情的に断りの意を仲介の人に伝えたが、正直うれしかった。

一時的にフリーになった時、1冊だけ洋泉社で仕事をさせてもらった。その最中、忘年会があり僕も参加させてもらったのだが、その席で「星野もこういう場でいろいろしゃべるようになるとは、社会性が身についてきたな」と言われた。宝島社のときはどういう目で見られていたのだろうか。
その仕事が終わり見本が上がってきたときは、担当編集者の配慮で、僕から石井さんにその見本を手渡しする機会を設けてもらえた。それは、宝島社時代からの儀式のようなものだった。
これが、石井さんと僕との仕事上の最後の接点になった。

3年ほど前だったか、石井さんが大病を患われたことを知り、心配していた。
それでも治療がうまくいって仕事に戻られたと耳にしたので安心していたのだが、今年に入ってたまたまイベントで会った洋泉社の人から、また療養されていると聞いた。お見舞いに行きたい旨を伝えると、「今は難しい」との返事だったので、かなりお悪いのだろうと覚悟していた。
最後にお会いできなかったことが、悔やまれる。
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僕が編集という仕事を始めて15年以上がたった。
そのうち宝島社にいた期間は最初の4年半に過ぎないのだが、いまだに“元宝島の星野”と言われてしまう。
それ以降何もしてないみたいで嫌なのだが、やはりそう言われるだけのものが、当時の別冊宝島にはあったのだと思う。
石井さんの元、数々の異能な先輩編集者たちがいて、僕はそのなかで「編集の仕事とは何か?」ということを学んできた。
ただ、その学んだことを大事にしまったままでいるのは先輩たちに申し訳ないので、それを今後の仕事で惜しまずに出していかなければなあと、今さらながらに感じる。
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宝島社時代、自分の本を何冊か担当して編集の仕事にも自信が出てきた頃、石井さんに「昔みたいな別冊宝島を作りたいんですけど」と言ったことがある。“昔みたいな”というのは、別冊宝島の黄金期と呼ばれる、100号近辺のルポルタージュ路線のものだ。
それを聞いた石井さんはニヤッと笑って、「お前にはまだ早い」と言った。

それをこれから作ろうと思う。
石井さんに見ていただくことは、もうできないけれど。